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脱・不登校ということ−−−中学3年生の不登校からの旅立ちの場合:--Cafetalk--

2014.01.26.01:44

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脱・不登校ということ−−−中学3年生の不登校からの旅立ちの場合:--Cafetalk--

▼不登校情報に関心を寄せている学校の先生の中に、「ぱいでぃあ」というフリースクールは「不登校のエリートが行く所」というレッテルを貼る方がいた。レッテル、ラベル、タグ等(どう違うのかな?)は検索には便利だが、時にはそのイメージ操作が実態と大きくずれていることがある。このネーミングもその一つかも。そこで「ぱいでぃあ」での実際について簡単に紹介したい。

▼埼玉県の中学入試が終った今、都内の中学受験に向けた取り組みと埼玉県と都内にまたがる私立高校入試とが併行する。ところがどっこい、子ども達の自分づくりの旅はそれだけではない。

▼今まで長らく家の中で過ごして引きこもっていた中学生がいる。今までは全く何も手に付かない状態だったらしい。親御さんが現在都内の有名大学で元気に学んでいる元不登校の娘さんを持つ親御さんに相談したところ、ぱいでぃあのことを教えられたと言って相談に来られた(口コミ情報とでも言うのかな?)。確かにその娘さんは中学時代ぱいでぃあに通っていたことがある。同じ部活の子が自殺し、それを止められなかった自分を悔やんで学校に通えなくなった子であった。

▼まず親御さんが来られ、次いでその流れで本人も来るようになった(親子の信頼関係はとても重要)のだが、当初は義理のように顔だけ出してすぐ帰ろうとした。もちろん引き止めて話を聞きアドバイス等もしたのだが、勉強をどうするかなんてことは全くの想定外のよそ事。でも、幸いなことにってみたいことがただ一つだけあった。「楽器をやってみたい」と。じゃあ「それで行こうよ!」ということになった。中学3年生ではあるが、当面、勉強の話はなしである。

人間誰でもそうだが、嫌なことはやりたくないが、好きなことはトコトンやってみたいもの。指示命令も利害も抜きである。そして「好きこそ物の上手なれ」である。(もちろん様々な要件を考慮してのことであって、無原則ということではない)。彼の入れ込みよう(集中力)は半端じゃない。だから、あれよあれよと上達する。「それまで触ったこともなかった」なんて嘘のよう。指導の先生も感心しきり。さらに思いはそこから他の楽器へも波及する。秘めた能力が今まさに開化しつつあった。

▼とは言え、やはりまだ中学の受験生。自分への自信が湧いてくると同時に、他の受験生の動きも気になる。そろそろ自分のお尻にも火が点いてきた(でも、この逆では絶対ダメ!)。聞くとはなしにアドバイザーの先生の言うことも考えてみたりする。でも、出てくるのはやはり投げやりな「どうでもいい」という言葉。カッタルイ。メンドウクサイ。

▼ここで、ちょっと一言。あなたはお子さんの言葉をどう捉えますか?その捉え方一つによって、あなたのお子さんへの理解の仕方が大きく変わってしまいますね。

▼さて、話を戻します。「どうでもいい」って、どういうことでしょう?本当に「どうでもいい」と思っているのでしょうか?思ってないとするならな、それは口から出任せのウソなんでしょうか?どちらも違いそうです。彼は素朴にありのままの気持ちを言っただけ

▼よく「言葉ジリを捉える!」とか「言葉狩りだ!」とか批判される方があります。「真意を理解していない」と。どうしてそうなるのかというと、それは言葉を額面通りにしか理解できない側にも問題がありそうです。SNSが発達した現在、一家言を持って学生を指導する立場の大学の先生にもそういうことが散見されますから困ったものです。

▼不登校問題で言えば、カウンセラーや心療内科の医者などがこれをやったらお終いですね。でも、実際にそういうキャパシティのある人がどれだけ教育現場にいるか。聴き取り言葉を交わす人の、知的学問だけではない人間力が問われていますね。

▼とにかく、変身また変身で、蛹から蝶に変わっていく訳ですが、言葉もまたそれぞれの状況や、その子なりの体験や理解によって、その器に盛りつけられるものも刻々変わっていきます。
 一方、「不登校理解」が喧伝される今の世の中その子が不登校になった学校での扱いとはうって変って、教育ビジネスを営む所では真逆の対応をしてくれます。「気をつけよう 甘い言葉に暗い道」という標語がありますが、そういう言葉のオンパレードが待っています。
 最終的に子どもの社会参加をおいているぱいでぃあでは、不登校の子ども達のメイドや執事になったりすることはありませんが(子どもを自立した人にするのが目標ですから、ペットのような扱いもしませんが)、不登校産業の世界ではしばしば見られることです。

▼子どもとアドバイザーが笑いながら話してる。「そういう所に行くとね、必ず〈キミはキミらしく輝いていればいいんだから〉とか〈遅刻したって、休んだっていいんだよ〉とか言われるからね。気を付けるんだよ。経験がないと〈あっ、ここはいいとこだ!〉って、思って、すぐ決めてしまったりするから」ね。自分がどうなりたいのか、よーく考えてね。
 そう言われた子が数カ所、自分で不登校の受け入れ高校などを回ったら「実際にそういう対応だった」等と笑いながら言っている。自分の道を自分で納得する形で切り開くこうとする姿がそこにあった
 ようやく彼は公立も私立も視野に入れ、自分の進むべき高校入試に向けて動き出した。そこには長く家に引きこもり、未来への展望を全く失っていた時には決して見られなかった、個性的で内発的な輝きが確かに灯り始めている。
 疑って待ってもよいことは何も起きない。でも、信じて待てば望む未来は向こうから自然にやって来る。「待つ」とはそういうことである。しかしまた、「待つ」ということは何もしないでいることではない。「人事を尽くして天命を待つ」とはよく言ったものである。


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間違わないための不登校からの学校選び(2)−−−−番外編Ⅱ:フリースクールと中高受験について

2014.01.20.17:40

紙クラフトー2
紙クラフト作品から箱もの

間違わないための不登校からの学校選び(2)−−−−番外編Ⅱ:フリースクールと中高受験

▼今年度の埼玉県の中学入試も正月明け早々に始まり(例年のことだが)、その結果がもう発表になった。私の所からも不登校だった小学6年生が受験し合格した。が、本命はこれからの都内の私立中学。そのための担保でもある。私立高校入試もこれから本格化する。公立高校の入試はその先である。
 もとよりフリースクールは進学塾とは目的が違うが、中高入試に無縁ではない。むしろ不登校であった子どもたちには大事な突破すべき目標でもある。特に私立中学入試の場合には、学校でその個性が受け入れられなかった子ども(これは学校の教師の指導の問題もあるが、むしろ周りの子ども達から排除される場合の方が多いかも)、私立中学で再起を図ろうとする子どもが受験することになる。そのままかつての同級生と同じ地元の公立中学に進むのは不安であるし、秘められた可能性を摘み取ることにもなる。また同じ結果になることは絶対に避けたい。その分、大過なく学校に行っていた子どもたちとは事情が大分異なる。
 しかし、問題は偏差値的学力だけではない。その子自身の今後の生き方にも大きく絡んでくることだ。大きな大木に育ってしまえば問題はないが、若芽や新芽の時代にはまだ脆くて弱い。周りにそれを受け入れる環境がなかったならば、それを庇護し支援することが必要だ。それでなければむざむざその才能を葬ることも起きて来る。特異な才能ほど脆く崩れやすいとも言える。
 だから、フリースクールで日々接する中でのその子の個性の見極め(現在の能力やまだ未知の潜在的な将来への可能性など)や支援のあり方がとても重要な意味を持ってくる

不登校の場合には、落ちこぼれ、浮きこぼれ(噴きこぼれ)、自由な学びのための選択的不登校(登校拒否)など、様々な生態がある(逆に「ふつう」の子は少ない)。そして、そういう不登校の子どもたちがフリースクールに通う中で、例えば「ぱいでぃあ」に通ってくる中で、不登校であった子どもたちは身も心も癒されて行き、教科学習をするだけでなく社会体験学習などの活動を通じて様々なスキルを積み、以前にもまして強く立ち直って行くことになる。
 学校に行っていた時の有象無象の煩わしさや制約を放れ、自分の最適のリズムに従って各自のプログラムを組み立てるのだが、その中に脱・不登校(不登校を脱皮し、自己の再生を図ること)実現のために中学受験を目指す子ども達もいる訳だ。
 現在の小学校では子どもたちをそのまま上の中学校へ送り届けるのが主眼だが、フリースクールでは逆に不登校となった子どもたちに学校では得られない自立的な学習環境を提供することも可能である。もしその子に優れた能力があるならば、学校レベルの勉強は早々に仕上げて、自分のリズムに従って、昼の時間帯から受験を目標とする勉強も可能である。逆に、教科学習に苦手意識がある子であれば、その子はその子のリズムで自分の能力の開発に取り組むことになる。学校での評価は単一の基準による場合がほとんどで、その子の多様さにまで注目することは難しい。
 もちろん、バランスのとれた育ちは重要なことだから、心や身体の様々なスキルや社会体験学習も欠かせない。そういうトータルな支援をするのが不登校の子どもたちのためのフリースクールの本来の役割だろう。「ぱいでぃあ」での活動もそうである。

▼しかし、間違ってほしくないことが一つある。それは「ぱいでぃあ」というフリースクールでは(「フリースクールでは」と一般化できないかも)学校教育で求められるものはすべて実行するが、学校教育の亜流ではないし、また子どもたちに出来合いの知識を手っ取り早く付与する学習塾的な関わりも極力行わないということ。遅くてもいい、間違ってもいい(むしろ間違いを奨励している)、回り道をしてもいい、とにかく子ども自身に問題と格闘させ、そこから自分なりの解決策を引き出すことに最大限付き合う。そうすることで教科学習が自他の差別化や「自分の出来なさ」に使われるのではなく、自分の成長を確認し「出来る自分」を体感する武器ともなる。「知は力」である。そういう作業を通じて教科学習もまた立ち直りの作業に大いに寄与する
 だから、必然的に教材選びも異なってくる。学校の教科書はそのままでは大部分は役立たない。なぜなら、教科書は基本的に生徒のためではなく教師のためにあり、それを用いて生徒に分かりやすく噛み砕いて説明し伝達するためのものである。教科書は必然的に生徒に「教える」ための教材なのである。だから、学校を離れて教師から教えられることがなくなった生徒には無用の長物に等しくなる。代わって不登校の子どもたちに必要なのは、子ども自身が読んで面白く理解できる教材、生徒の目線や能力・関心にあった魅力的な教材である。生徒自らが進んでやりたくなるような知的探究心を刺激する教材である。林竹二さん風に言うならば、「子どもの心にドラマを生じさせ、それを体験することで見方が変わる」ような教材である。

▼では、実際に多くのフリースクール等でどんな学びが実践されているのか。それを知りたければ、「学び場」のキーワードでも入力してネットで検索してみればいいかもしれない。中には、学び以前の活動、たとえば「料理教室」とかに特化して、とにかく子どもたちを喜ばせることに徹しているところも結構多いことに気付く。その中で、しばしば「学びの共同体」とか「自立と共生の場」とか「学びのネットワーク」とかの言葉に出会うかもしれない。最初は「ぱいでぃあ」でも使っていた言葉も多い(不登校への本格的な取り組みを開始したのは私たち『ニコラ』の活動であったから)。その言葉たちはやがて実態を超えて広く流布したように見える。しかし、その言葉の多くは生徒集めの宣伝の言葉に過ぎない、ということは心得ておいた方がいい。自戒をこめてそう言いたい。
 そんな字面に惑わされることなく、お子さんの現在の状態や今後の可能性をよく考えて、最も相応しいところを選択されたらいい。たとえば「重い障害のあるお子さん」と「枠からみ出た自由な学びを望むお子さん」とでは、必然的に学ぶ内容も進むコースも違ってくるはず。それぞれに相応しい活動の場・学びの場で生かされることが必要だ。
 さらに、そこが独立した学び場なのか、サポート校等の付属機関として将来の生徒を確保するための場なのか、さらに、そこを飛び立った子どもたちは実際に今どうしているのか---などもよく確認したいものだ。それによって、これから何をどうするか、その子にとって不登校とは何であったのか---等も決まってくるのだから。

▼実際問題、幸か不幸か、不登校の子どもたちの学び場は文科省の直接の指導下にはおかれていない(避けているのでは?)。だから、不登校となった小中学の子どもたちは義務教育年限であるにもかかわらず一切教育公費の恩恵には与れなくなる。だが奇妙なことに、それに対して不平は言うけれども「おかしいじゃない?何とかして!」と訴える親御さんはまずいない。
 これは日本の教育制度の一つの大きな問題点だろうと思う。日本では子どもが不登校になったらまるでとんでもない病気にでもかかったかのように問題視したり(医療機関では申し合わせたように「不登校は病気ではない」と言いながら、薬物を処方することが多い)、反社会的なことをやってしまったかのようにひたすら隠そうとしたりする。まるど我が子が社会のタブーを破った犯罪者のように。
 私たち民間の教育機関は、学校を離れた不登校の子どもたちに文科省の指導の枠に囚われない、それぞれの子どもに相応しい教育活動を実践している。それは文科省の教育的指導の枠に囚われないからこそ可能な教育的関わりでもある。しかし一方、残念ながら、その自由さが逆手に取られ、教育産業、とりわけ「不登校ビジネス」の狩場とされる不幸な現象も数多く起きている。そういう苦情を専門に聞き取る機関さえもある。
 実際、毎年のことだが「ぱいでぃあ」に他のスクールから流れてくる子どもたちがいる。「言っていることとやっていることが違った」「フリースクールでもいじめにあった」「いじめっ子が野放しの状態」「先生が自分を人として見てくれない」「あれは先生じゃない」「詐欺だ」---等々。これが大々的に宣伝費をかけて「不登校の子どもたちの学び場」とか「不登校の子どもたちの活動の場」とか、あたかも理想の学び場であるかのように謳っているから困ったもの。ところが、そういう訴えをする子どもたちが自分に相応しい学び場として「ぱいでぃあ」を見つけてやって来る。宣伝らしい宣伝を何もしていないのに。「じっくり調べたら出てきた」のだとか。そういう苦い経験をした子どもたちが「ぱいでぃあ」で最終的に認められる場を得て、元気に飛び立っていく。それを見るのは、正直ほっとすると同時に嬉しくもある。 

▼前にも触れたと思うが、我が子が不登校となると「諦めの哲学」に陥る親御さんたちが実に多い。そして、子どもたちを応援する立場にまわるどころか、誰も望んでもいないのに暗い陥穽(落とし穴)に自らはまり込んでいく。そして出口の見えない中で悶え苦しみ、人知れず愚痴を反芻する。だが、それでいながら具体的な脱・不登校の行動を起こそうとはしない。知識は行動に転化してこそ意味を持つものなのに
 なぜ、一度子どもが不登校になったくらいで簡単に諦めてしまうのだろう?あたかも子どもの人生がすべて終わってしまったかのように。子どもは自分ではどうすることも出来ないで親御さんに助けを求めているのに、なぜ親御さんはその子のために最善の方法を探そうとしないのだろうか?親の役割の放棄と批判されても仕方がない。
 では、具体的にどうすればいいのだろうか
 
▼ そういう方々がよく口にする言葉に「子どもがそう言っているから…」というのがある。確かに「子どもの心に耳を傾けて!」「子どもの目線になってみて!」ということはとても重要なこと。親御さんに言っても言い過ぎることがないほど、この日本の社会の中では大事な子育ての心構えである。だが、それは「子どもが喜ぶから」と言って子どもにたくさんのオモチャを与える子育てとどこか似ていないだろうか?見方を変えれば、それは保護者としての役割の放棄、思考停止の状態に等しい。
 というのは、子どもはこの世に生を受けてまだ10年未満かせいぜい10数年の存在。大人の目からはこれほど世界は豊かさに満ち情報に溢れていようとも、子ども本人は自分の興味関心のあるものでしか世界を切り取れない。まさに「葦(よし)の髄から天井覗く」状態にある。子どもはまだ十分に自分だけで判断もできなければ選択もできない。その子どもの言に従うというのだろうか?
 ここはやはり親御さんの出番ではあるまいか?子どもの意思を尊重すると言えば聞こえはいいが、親御さんが判断停止や共依存の心理状態にあることの裏返しであることがしばしば見られる。心すべきことだ。

たとえお子さんが何らかの理由で不登校になったとしても、親御さんとしては簡単に諦めないでほしい。そして、保護者としての教育権、子どもの学習権の実現に最大限の努力をしてほしい。
 たとえば、具体的に言うと…。
(1)いじめや不登校で命を落とす子どもがいる。愚かなことだ!もし命を捨てる覚悟があるならば「まず逃げろ!」命以上に大切なものはこの世の中にはない。そう言いたい。自分を生かすために逃げるのは決して卑怯ではない。そこで頑張り過ぎて命を落とす方がよほど愚かである。それこそ犬死というもの。
(2)不登校になっても自分を責めないこと!基本的にそういう個性を受け入れられない日本の学校教育こそが問題なのだ。「出る杭は打たれる」という悪しき風習がある。誰でも分かることだが、成功者というのはみな個性的。決して付和雷同の輩ではない。自尊意識が濃厚である。自己卑下ばかりしていては自分に未来はない。自分を愛し、自分の人生の成功者になるべきである。個性的であっても成功者になれば評価されるのが日本社会でもある。実際「出過ぎる杭は打たれない」のだ。たとえばノーベル賞受賞者。誰一人普通の基準で外れ者ではない人はいないのでは?不登校もそう考えればいい。
(3)また、不登校になっても、学校教育を諦めないこと。最大限に活用しよう。一度逃げたとしても、自分の力を取り戻したならば再び挑戦すればいい。不登校でのフリースクール体験などもいい経験になるだろう。近代学校教育には幾つもの問題があるが、だからと言って捨てるべきではないし、諦めるべきではない。国民が学ぶために多額の税金が投入されて用意されている国の教育機関なのだから(それでもOECD加盟国の中では驚くほど少ないが)。
 もし、中学時代には学校に戻ることが不可能であれば、高校受験で挑戦して見ればいい。今やかつての不登校生のためにも高校進学の門戸は開かれている。簡単に諦めるべきではない。ぜひ門を叩いてほしい。そのために「ぱいでぃあ」のようなフリースクールは最大限の支援を惜しまない。

▼実際問題、費用の面で躊躇する方も多かろう。これは日本の教育制度の最大の欠陥である。経済格差が教育格差と連動している。本来は教育バウチャーなどの制度で経済的支援があってしかるべきである。とにかく、中学時代の内に適切に対応すればほとんどの場合、2~3年の支援で確実に立ち直れるのだ。しかし、その機会を失すると、その後は引きこもりへと移行し、場合によっては一生社会参加が難しくなるケースもある。親御さんにとってどちらを望ましいのだろうか。
 一時期は不登校だったとしても、心身頭脳共に回復したならば、迷わず公立高校も私立高校も一般の生徒たちと同じように受けてほしいものだ。そのための支援であれば喜んで関わりたい。それこそがフリースクールの主要な役割なのだから。
 もし、それらが残念なことになったなら、あるいはさらに高校でもケアが必要という状態にあるならば、その時は「サポート校」のような民間の支援機関を利用すればいい。サポート校は当初からそういうセーフティネットのために立ち上げ、私たちが雑誌『ニコラ』などでも推進した機関なのだから。
 ただし、サポート校選びは焦ることはない。私立受験校のように早い段階からの単願確約はまず必要ない。公立校や私立校の入試が終わり、それでもまだ進路が決まらない時に選んでも大丈夫である。時期的には、3月中はもちろん場合によっては4月になっても間に合う。入れないことはない。だから、それまでに安心して自分の望む学校に挑戦してほしい。どのような状態であろうと、最後の最後まで不登校を受け止める民間の教育機関、それがサポート校という教育機関である。
 とにかく、不登校だからといって進路や人生を諦めるないこと。誰であれ道は自分でイメージしたように開かれていく。「お前ははいったい何をやりたいんだ?」そう自分に問いかけて見よう。成りたければそれに向かって行動するしかない。

※推敲(予定)

(続く)

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Author:Bakiller
不登校の子ども達やフリースクールを応援するブログです。
「不登校も過ぎてみればいい経験」がモットー。「脱・不登校」ですが、不登校の否定ではありません。それを肥やしにして、そこから飛び立つことが願いです。
 世の中にはもと不登校とか学校が合わなかったという人はたくさんいます。でもその人達は自分を否定せず自分を貫き通し自己実現した人達。不登校をはじめ様々な逆境をまたとないチャンスとして積極的に生かした人達。何も特別な人達ではありません。どの子もそうなることことを願っています。主役はあなたです。

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