FC2ブログ

「トイレの神さま」から思うこと---「トイレ掃除」について

2011.01.26.23:30

学校運営

暮れの紅白歌合戦で注目された植村花菜がギターで弾き語る「トイレの神さま」という歌が今ヒットしている。ラジオでも放送され、テレビドラマにもなったらしい。同名のノンフィクション小説もヒットしているという。ポップスとしては少し長めの歌詞だが、内容がいい。決して真新しい視点ではなく、むしろ今生活の中から失われつつある大事な感覚を歌い上げたものと言っていい。今だから逆照射出来たと言えるのかも知れない。何でも自身と亡き祖母との思い出、小学校3年生から23歳頃までの実体験がベースとなっているのだという。

▼ところが、大阪府豊中市の公立中学に通うある中学生がネット(ツイッター)で「学校でのトイレの掃除に疑問」とつぶやいた書き込みが別の角度から話題を呼んでいる。「学校掃除ってあんまり要らない気がする。生徒じゃなくて業者が掃除すれば学校ももっときれいになるのに…」というわけだ。「学校掃除に教育効果があるのか甚だ疑問です」とも。
 奇しくも「トイレ掃除」に対する賛否が鮮明に浮かび上がったとも言えそうだ。学校教育とトイレ掃除の関係を改めて問い直す----そういう時期に来たのかもしれない。

▼それで思い出したことがある。以前公立学校の教頭向けの専門誌「学校運営」から執筆の依頼があったことがある。自分は民間の、しかも文科省の管轄以外の教育機関に身を置いている。だから、そんな依頼が来たとき時、「何でフリースクールにこんな依頼が舞い込んで来るのか、何かの間違いではないのか」と思い、電話で問い質したものだ。が、返事は「是非お願いします」とのことだった。そこで、真面目な思い半分、興味半分の思いで引き受けたーーーーそんなことがあったのを思い出した。
 多分、当時小中学校の不登校生は13万人を超え、学校教育の中でどう取り扱えばいいか考えあぐねた末、不登校生を引き受ける民間のフリースクールの声を聞いてみよう、何か得られるものがあるかもしれない----とのことだったのかもしれない。その号の特集には「再考・健全育成 - - 学校教育の現状を踏まえ - -」とあり、私の原稿は「提言」のコーナーに載った。タイトルは「民間のフリースクールから公教育を見る」というもの。

▼ところが、執筆依頼は引き受けたものの、私事で急遽病院にお世話になることが生じ、実際の文章は病院のベッドの上で、ノートパソコンを持ち込んで書くこととなった。さて、そういう閉ざされた空間の中で、何をどう書こうか--- 私なりに考えたことであった。その時、たまたま新聞で目にしたのが、学校でトイレが忌み嫌われ、汚れたまま放置され、器物が破損されたり、いじめの発生場所にもなっているということ、そこで頭を痛めた学校がトイレの改修に生徒たちの意見やアイデアを積極的に取り入れたところ、素晴らしい成果を上げた----という実例が紹介されていた。
 学校教育は本来子どもが主役であるはず。が、矛盾するようだが、実際には子どもたちははまだ発達途上にあり、単独では主役にはなれない。そこに親や教師、恵まれた環境などがあってこそ主役を演じることができる。だから、子ども任せにせず、必ずサポーターとしての教師や親の存在が必要なのだ。だが、学校では教える側の都合に基づいた極めて恣意的な教育方法が横行している現状がある。そこが何かの縁でやって来た子どもたちが主役を演じるフリースクールとは大きな違いである。

▼では、生徒が主役であるとは、実際に教育の現場ではどういうことになるのかそれは生徒もまた教場の責任を分け持つ存在であって、単なるお客さんではないということである。フリースクールの生徒はフリースクールを成り立たせる不可欠の存在なのだ。だから、心や身体の活動、教科学習だけでなく、自分たちが使う教場を気持よいものにするということもその要件にある。だから、掃除はもちろん、トイレの掃除もまた生徒たちの分担なのである。そして、その合言葉は「トイレ磨きは自分磨き」ということ。
 全国公立学校教頭会から引き受けた原稿の最後の章には「新しい教育と教頭の役割」という小見出しをつけた。そこでは、教頭は学校運営の要であるが、今までは他の教職員を通して子どもたちとは間接的な接触を持つに留まっていることが多かったが、今後は教職員全体を把握すると共に、生徒たちの面前に出て、子どもたちの意見や要望を吸い上げ、実際の学校づくりに反映させる役割を担うことを提言していた。

▼正直なところ、年末のNHK紅白歌合戦は嵐とAKB48以外はぱっとせず、ほとんどお付き合い程度にしか期待していなかった。その中でたまたまじっくり観たのが植村花菜の歌う「トイレの神様」の映像であった。タイトルは何度か耳にしていたが、曲を聞くのはその時が初めてであった。それが紅白で唯一私の心に残った歌でもあった。そして、同時に、もう何年か前に「トイレ掃除」について一文を認めたことがあったのを思い出したのである。植村の歌詞は、トイレには女神様がいて、毎日キレイにしたら女神様みたいにべっぴんさんになれるというもので、私たちのフリースクール(ぱいでぃあ)の「トイレ磨きは自分磨き」とは多少趣が違うが、その精神には合い通じるものがあった。

▼学校のトイレ掃除は、単に伝統だから、習慣だから、と生徒に理由も説明せず、また教師も明確な理由を説明できずに今まで来てしまった感がある。が、中学生がツイッターで学校のトイレ掃除に疑問を投げかけたこともある。今一度「学校のトイレ掃除」とは何か----学校の生徒に納得にいく形で説明すべきではないか。学校の様々な活動や行事についても、生徒の得心を得、同時に当事者として可能な限り責任を分担させることは、生徒が主役である学校づくりのためにも欠かせないことであると考える。
 学校という場が、本当に生徒が主役である場になることが出来るのか否か----それは偏に親や教師など、子どもの育ちの伴走者・支援者の心構えにかかっている。なのに、子どもが主役!? 子どもにそんな権利を持たせてどうするのか!----そういう時代錯誤的な思考からは最早何ものも生み出されないだろう。


******************************************************
「教育落書き帳」(ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/gootyokipapa/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
  http://freeschool-paidia.com/

「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

******************************************************

 良ければアクセスしてやって下さいね。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

スポンサーサイト

「教育」と「遊び」と--クレヨンしんちゃんとコボちゃんと

2011.01.19.20:06

▼言うまでもないだろうが、「子どもは遊びが仕事」と言われるくらい、子どもにとって遊びの活動というのは重要だ。ただ、その遊びの中には様々な要素が混在している。様々なものがまだ未分化の状態にあり、逆に未分化だからいいのだとも言える。それを大きく二つに大別すると、一つは基本的に訓練や修練を要求する「教育」的なものであり、もう一つは無用性をベースにしたより偶然性の高いものである。それが子ども達の中では矛盾なく同居している(実は大人の中でも重要な役割を担っているのだが…)。

▼このことは子育て中の親や保育者(保育士、幼稚園教諭等)の中では理解されている。「子どもには遊びが一番よね」と。しかし、子どもが保育園や幼稚園から学校に通うようになると、途端に周囲の様子が変わってくる(いや、今は幼稚園と小学校の連携が進んでいるからもしかすると幼稚園も危ないか)。「いつまでも遊んでいないで、早く勉強しなさい!」と。教師も親もそういうことが当然だという基準で行動するようになり、子どもにも迫る。しかし、実は日本の教育の不幸はここから始まったのかもしれない

▼「教育」という目的化された行動からその滋養ともなるべき「遊び」の部分がすっぽりと抜け落ちてしまったのである。教育者は学校教育の場で教育と遊びを峻別して「教育」の部分に力を注ごうとするが、それはあくまで指導上の便宜であって、完全に区分けできるものではない。ただし、それを同居させて総合的な教育効果を発揮させるためには子どもを指導する側に相当なマネジメント能力を要求されることである。そういう力のない教師の場合には、勢い狭い「教育」に特化されたマニュアルに従って指導することになる

▼かつて漫画家・臼井儀人氏がまだ存命の時、「クレヨンしんちゃん」のアニメでしんちゃんが小学校に通うようになったシーンを見たことがある。相変わらずのドタバタだが、もしあのまましんちゃんが小学校に通うようになったなら、学校内でとんでもない活劇が起きることだろう。しかし、それこそがクレヨンしんちゃんの持ち味であって、もし学校という空間が彼にとってそれが発揮できない場所であるならば、それはしんちゃんにとって不幸の始まりとなるのではないかと感じていた。作者の不慮の死によって、しんちゃんは幸か不幸か「永遠の5歳」「永遠の子ども」に留まることになった。しんちゃんが幸せであるためには、運命の悪戯か、たとえ漫画の世界の出来事だろうと小学生になる展開はあってはいけなかったのである。

▼今、読売新聞の「コボちゃん」で、来春小学校に入学する孫のためにおじいちゃんがランドセルを物色している場面に出会った。微笑ましい光景には違いないが、「コボちゃん危うし!」という感想を持ってしまう。核家族の家庭の子どもだった「クレヨンしんちゃん」と違って「コボちゃん」は同じ5歳でありながら、古風とも言える「健全な家庭」の子どもとしてのんびりと育った。それは今時は珍しい、社会的なバランスに恵まれた環境の中でおっとりと育つことができたということだ。だから、逆に余計に心配なのである。それはなぜか。

その時、コボちゃんは今のコボちゃんではなくなるからである。いうなれば、「コボちゃん」の小学校進学は「コボちゃん」的世界の終焉を意味するのだ。妹・実穂ちゃんが生まれ、その成長が描かれる。すると、必然的にコボちゃんのお兄さんぶりも描かれるわけで、このままでは今年の4月には小学校に入学しそうである。それでは何が良くないのか?
 良くないことは何もない。とうとうコボちゃんが小学校に上がるまでに成長したということ、それは実に喜ばしいことである。だが、しかし、それは今まで新聞に描かれてきた「コボちゃん」の世界がもう成り立たなくなるということを意味している。もしそうなるならば、作者・植田まさし氏がそれを是としたということになる。果たしてそれは作者の望むところだろうか。少なくとも、その時私はもう読売新聞の読者ではなくなるだろう。




******************************************************
「教育落書き帳」(ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/gootyokipapa/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
  http://freeschool-paidia.com/

「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

******************************************************
 良ければアクセスしてやって下さいね。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


プロフィール

Bakiller

Author:Bakiller
不登校の子ども達やフリースクールを応援するブログです。
「不登校も過ぎてみればいい経験」がモットー。「脱・不登校」ですが、不登校の否定ではありません。それを肥やしにして、そこから飛び立つことが願いです。
 世の中にはもと不登校とか学校が合わなかったという人はたくさんいます。でもその人達は自分を否定せず自分を貫き通し自己実現した人達。不登校をはじめ様々な逆境をまたとないチャンスとして積極的に生かした人達。何も特別な人達ではありません。どの子もそうなることことを願っています。主役はあなたです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR