■インプットからアウトプットへ──勉強の変革(3)古典的教授法の終焉

2010.08.29.15:46

▼体験を通した記憶が生き残る
 「学び」の問題も含めて子どもの活動の全体を評価することが大事なんですね。なのに、それを狭くて窮屈な「勉強」に限定してしまうから、いろいろ問題が起きてくるんです。子ども時代というのは特に未分化の部分が多いのです。
 勉強は勿論大事です。でも、それ以前に、子どもにとっては体験そのものが最大の学びだということです。体験を通して身につけたことは、それが意識的であろうと半ば無意識的であろうと記憶されるんです。
 たとえば、大人になって偶然に幼稚園や小学校時代の友達と出会ったとします。すると、その子と遊んだりバカをやったりした様々な思い出が一気に鮮明に思い出されませんか?意識的に記憶したことは全くなかったいのに、身体がしっかりと記憶しているんですね。

▼アウトプットで人はコミュニケートする
 逆に、学校で学んだ細かなことや「ここはテストにでるからよく覚えておけ」なんて先生に言われたようなことは、殆ど思い出せない。忘れてしまっているんですね。ですから、その人と旧交を温めたり、思い出に花を咲かせたりすることができるのは、自分たちが自然に思い出し語り合えることによるものですね。つまり、記憶の底からアウトプットできたものが全てだということです
 何をインプットしたかではないんです。たとえインプットしたとしても、その時に思い浮かばないようであれば、意味がありません。子どもの勉強だけでなく、子どもの全ての活動に言えることではないでしょうか。特に、「9歳の壁」とか「12歳の臨界期」などと言われる期間にいる子ども達の場合には。
 どんなに時間をかけて勉強しても、どんなに一生懸命にインプットしたとしても、それが必要なときに必要な形で思い出せなければ全く意味がない。アウトプットが大事というのはそういうことです。

▼学校教育での勉強はインプットが主流
 私の頃も今の生徒達の場合も大差ないと思いますが、学校での勉強はインプット重視ですね。先生が教科書に従って、あるいは指導要領に従って生徒に教え、それを生徒に覚えこませる。教師の指導力と言われるものはそこにかかっています。
 ですから、ちょっと見れば分かることですが、「教科書」は生徒のためではなく先生が生徒に噛み砕いて教えるのに都合のいいように出来ています。対して、生徒にはひたすらそれに応えられる記憶マシーンとなることが求められるのです。そして、なるべく正確に大量に記憶できた者が優れた生徒と見做されます。

▼古典的教授法よ、さようなら
 ですから、教育実習の学生に指導案の作成を指導するような先生は、まずそういう技術や態度を学生に学ばせます。実は、その先生にもさらに上の先生がいるんです。たとえば、以前ですと林竹二(元宮城教育大学学長)さんのような方はその最良のモデルとして、良心的な先生方に尊敬されていましたね。亡くなった後も、その方の記録映画をもとに勉強会などもよく開かれていました。
 確かに本当に教師のモデルのような素晴らしい方だったのだと思います。でも、だから、あえて言いたいんです。あのような授業を行うには、林さんのような頭脳や人格や存在感など、教師としての優れた資質の全てが備わっていることが必須条件なのです。そういう条件が揃っていてはじめて可能なのです。
 つまり、どんなに頑張ったって誰でもが出来ることではないんです。林さんだからできたことなんですね。とても一般の先生に求められることではないんです。しかも、これが肝心なことなんですが、林さんの授業もまたインプットを主とする古典的授業形態だったということです。

▼求められるのは生徒が主体の教育方法の確立
 インプットする側、教授するからすれば、ほぼ完璧に近いものです。伝統的な教授法としては満点に近いものなんです。
 たとえば、林さんは晩年に障害者や定時制高校の子ども達に精力的に、田中正造の話などをして歩いたようで、その授業風景が感動的な映像として残っています。障害のある子や恵まれない環境で育ったような定時制の生徒達の心に直接働きかけ、分かりやすくゆっくりと、その魂に揺さぶりをかける。正に林竹二さんならではの迫真の授業です。でも、それでもそれは、教師が主体の、生徒がお客さんの、古典的授業なのです。
 でも、日本の教育では今までそういう授業が正統的なあるべき授業法と見做され、根本的な疑問を持たれず、他の方法はほとんど考慮されて来なかったように見えます。ですから、個々の試みは別にして、学校教育全体として教育方法が大きく変わるためにはまだまだ時間がかかるのではないでしょうか。何よりも教師全体の意識の変革が必要ですし、教師の育成法も大転換しなければなりませんから。

(4)につづく

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インプットからアウトプットへ──勉強の変革(2)スキルの向上

2010.08.20.14:46

※このブログで述べていることは確定的な意見ではなく、あくまでも「覚え書き」的なものであるとご理解ください。

gakkoukara-gakkouhe 経済同友会が発表した「学校から合校へ」
(月刊教育誌「ニコラ」1995年10月号から)

■Q:子どもが主体となると、勉強その他の活動がどう変わるんですか?「子どもの好き勝手にさせておいていいのか。大人として子どもに伝達すべきものがある。それを行うのが教育だ」というような考えも根強いと思うんですが…。
■A:うーん、教育のこととなるとどうしてみなさん堅苦しく考えてしまうんでしょうね。もっとゆったりと広い視野で眺めてみませんか。
 確かに、日本に近代国家が成立し、欧米に追い付き追い越せとばかり、富国強兵とか殖産興業とかの掛け声でやっていた時代には、教育もいかに良質の部品を大量に生産するかということに力点がかかっていました。でも、それはそれで時代の要請であったわけです。「近代的教育工場」と言ってもいいと思いますが、当時の教育はそういうニーズに応えることでそれなりにうまく機能していたんです。でも、今はもうそういう時代ではない。なのに教育は一向に自己変革できない。子ども達のニーズに全然応えられなくなってきていますね。
 一方、相変わらず進学熱は高いですけれども、みんな学校教育に満足していない。未来への展望もない。でも代替のものもない。だから、とりあえずこの路線で行くしかない…、そんな感じですね。
 こういう日本の教育の危機を最も敏感に察知したのは、実は財界や産業界ですね。1990年代、不登校になる子ども達がどんどん増えてくる中で、このままでは「日本沈没」しかないと、「学校から合校へ」という教育改革のスローガンを掲げていち早く動き出したのは経済同友会の人達でした。今、外国では日本のことを「失われた10年」とか「20年」とか言って「日本のようになるな!」ということが言われているようですが、その元は自ら変革できない日本の教育にあるんじゃないでしょうか。でも、教育界は馬耳東風というのか、自ら真剣に変わろうとする感覚を持っていない…。

■Q:なるほど、教育は日本の命運とも連動しているわけですね。でも、ちょっと話が難しくなりました。卑近な例で説明してもらえませんか?
■A:たとえば、私どもが英語を習ったときは、「Jack and Betty」という英語教材でした。でも、周りには外国人など全くいません。特に私が育ったような田舎はそうです。では、何のために英語を勉強するのか。それは日本が復興するために欧米の知識をどんどん吸収するためなんですね。ですから、もっぱら理解する英語、黙読する英語ですね。しかも、英米人でもびっくりするような難しいレベルにまで突き進む。そういう英語の勉強が求められたんです。でも、結局そういう語学は身に付かない。私もそういう英語教育の犠牲者の一人です。
今は中学生では「New Horizen」とか「Sunshine」、「Total English」、「NEW CROWN」などになっていますね。それでも──どっきりテレビじゃないですが──やっぱり「I study English.」なんですね。「I learn English.」ではない…。

■Q:つまり、依然として、日本の学校教育のスタイルは変わっていないと…。
■A:ええ。語学はコミュニケーションのためのツールだと思うんです。ところが、日本ではなぜか「研究」になってしまう。「learn」と言えば習得し使えるようになることが前提です。ところが、「study」だと勉強しているという態度が問題であって結果は問われない。で、日本の子ども達はみんな難しい顔をして「study」している。その結果、OECDの加盟50数カ国の中で習得率が最下位なんていうおめでたい勲章をもらうことになるんですね。
 これは英語だけの話ではない。日本の教育の象徴的類型ですね。これが全ての学校教育のあり方に浸透している。日本の教育は初等教育としてはとても高度なことをしているんだけれども、恐竜の進化のように先がない、袋小路、行き止まりの勉強です。よく日本の携帯電話のガラパゴス化ということが揶揄的に言われますけれど、その典型は日本の教育システムそのものにあるんですね。

■Q:といいますと、たとえば…日本の教育が今後どうなって行かなければならないと?
■A:「子どもの学び」というのは、基本的に遊びやスポーツ等と同じ地平か、その延長にあるものだと思うんですよ。だから、それは「学問」ではなくそれ以前の「練習」を通じての「スキルの向上」というものだと思うんです。
 僕らが子どもの頃は日の暮れるまで(集団であれ個人であれ)遊び呆けたものですが、今は何でも訳知りの指導者(?)がいて組織化され序列化され、それで優劣が競わされる。その最たるものが学校での活動ですね。でも、子どもの活動って本来そういうものではないでしょう。「児戯に類する」という言葉がありますが、他愛のないことで戯れていたり、子供特有の創意や発見があったり、一見重要でない部分が重要であったりするものです。
 社会的な感覚を磨くという面から見ても、遊びにもルールはあるし、役割分担もある、想像力も不可欠です。仲間としての承認の儀式のようなものもあります。上達するともっと楽しくなるからと言って自分で努力もするし練習もする。これはみな共通なんです。その現れは違っても通底しているんです。こういう活動を通して子ども達はコモンセンスも自然に身に付けて行くんですね。
 たとえば、狭い原っぱで野球をしたとします。すると、ボールが近くの民家に飛んで行ったりする。それで、頭を下げて謝りに行き、ボールを貰うだけでなく、時にはガラスの弁償や鉢植えのことで大人と交渉しなければならなくなることもある。そういうことも全部、本当は子どもにとっては大事な勉強なんですよ。
 近年の教育は、そういうことを「教育」の名の下に子ども達から全部奪いとってしまった。「勉強」さえしていれば他は全部免除される。でも、それは子ども達の手足を縛り、心も縛り、その能力の向上を奪うことです。誰がこういう教育を当たり前にしたんでしょうんね。この功罪(?)はあまりにも大きいですよ。

(3)に続く

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