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■インプットからアウトプットへ──勉強の変革(4)生徒主体の学びの確立

2010.10.31.01:10

▼先の「インプットからアウトプットへ」の(1)~(3)の連載のブログは少し専門的な領域に入り込んでしまったかなと反省しています。もう少し、具体的な実践に即して説明したいと思います。

▼結局、教育の主体者は誰であり、子ども達は学校で何のために勉強をしているのかということです。それを踏まえて子どもの本来の教育のあり方を考え、勉強を組み立てることが必要だと思っています。日本の学校の子ども達はほとんど目の前のテストでいい点数を取るために勉強をしているようですが、それが本当の子どもの勉強の目的なのかということです。

▼例えば、筆順一つにしても、大人になればそれを正確に覚えている人はまずいないでしょう。子どもにそれをきちんと指導できる人はさらに限られます。結局、それに詳しいのは小学校の現場で働いている先生方か日々子ども達と接し指導している親御さんや学習塾の先生方…そんなところかも知れませんね。では、それを詳しく知っている人が優れた人かと言うと、それは小学生の勉強という範疇でのみ通用することと言っても過言ではないかもしれません。そんなことは忘れてしまっても、文字を書いたり文章を認めたりするときにさして支障があるあるわけではありません。まして文章表現力が劣るなどということはさらさらないことです。

▼それは文字がきれいに書けるかどうかの問題であって、それ以上でも以下でもないでしょう。「字は人を表す」と言われますが、さてどこまでそう言えることでしょうか。奇妙な道徳論と結びついたりもしますが、本来は別に論ずべきもののはずです。知人の父君に相田みつをという書家がいましたが、その人はむしろそういう「字が上手」という作られた枠を絶えず壊し続けていった方ではなかったか。また石川啄木の文字などを見るとまるで子どもの落書きのようにつたなく下手くそな字です。でも、「だから人間の中身も…」なんてとても言えません。また、自分の経験上からも字が上手な人が人格者だなどとはとても言えないことです。

▼一事が万事で、学校での勉強の中で、それは一種の通過儀礼としての意味しかなく、そのためにテストまで課し、ノルマを与えたり理不尽な選別をしたりすることにどれだけの意味があるというのでしょうか。それを学ぶことが全く無駄とは言いませんが、あえてやる意味もないように思えます。これに限らず、子どもの勉強には、改めてその意味を問い直してもいいものが少なからずあるように思います。

▼しかし、それは今までの先生を主体とするインプット中心の学びの活動からは見えなかった部分かもしれません。逆に、生徒が主体となるアウトプット重視の学びを考えるならば、これは現在等閑になっているけれども来るべき社会のためにもっと力を入れて欲しいとか、国際社会の一員として活躍できる子どもの育成のために是非取り入れて欲しいとか、そういうようなものになるのではないでしょうか。

戦後日本の変化を考えても、この60年間に、テレビや冷蔵庫、電話やパソコンなど社会は目まぐるしく変化してきました。とても戦前の変化のスピードとは比較になりません。それにつれて産業も社会構造も大きく変化したというのに、日本の教育だけは十年一日の如き趣で、その中身はあまり変わっていないように見えます。確かに、「不易流行」と言う言葉があるように、人の教育には常に変わらざるべき部分があるでしょうが、他方には社会の変化、時代の流れに従って、変わるべき部分もあるはずです。ところが、日本の戦後の学校教育ではこの「流行」の部分がすっぽりと抜け落ちてしまいました。その結果として、国際競争力の低下とか、学力低下とか言われ、また教育改革が叫ばれる所以ともなりました。

▼勿論、文科省が今まで掲げてきた教育改革も決して無駄とは言いません。しかし、小学校低学年の「読み書き計算」から中高生に至るまで、日本の教育課程の中には組み込まれていなかった様々な学習、たとえば「メディアリテラシー」や「金銭教育」や「株の取引まで含めた起業家教育」、あるいは政治を読み解く「政治教育」などは喫緊の課題とも言えそうです。
 今まで日本の教育は社会の風が吹きこむことを極端に警戒し、教育への様々なタブーを設けてきました。その結果、日本の子ども達の学校教育は確たる目的を定めぬ単なる教養講座的な学習に終始することになりました。そして、社会人になる上で欠かせない基本的なスキルを受けることなく成長することになったのです

やがて自分がなるべき大人の真似事を含めて、子どもにはそれぞれの年齢や興味・関心に応じた学び=スキルが必要です。そして、本来子どもはそのために自ら進んでその学びに取り組むものです。彼らにとって自分たちの日々の変化や成長は喜びであり、励みでもあります。教育者とはそういう子ども達の心身の成長発達を支援する存在であって、それを自分たちの要求や都合に合うように評価選別する存在ではないはずです。

▼実は、教育システムの「インプットからアウトプットへ」とは、単に教師主体から生徒主体へと教育の流れが変わることを意味するだけではありません学びの方法そのものの大きな転換でもあるのです
 もはや教育の力点は生徒へのインプットのみに力点を置くべきではありません。どのような優れたインプットを施されようと、それがアウトプットに反映されなければ全く意味がありません。学び、スキルを積み、身に付けたことがどのようにアウトプットされるか──それこそが重要なのです。個々の生徒達に最善のアウトプットを可能にするにはどうすればいいか──それをこそ教師が考えるべきことなのです。

▼そう考えれば、先生だけが正しい解答を持っている教授法というのは、もう意味を持ちません。「教え→覚える」形式の教授法はもう終わったのです。そういう知識の営為はもうハードディスクに任せておけばいいのかもしれません。やがて経年変化で色褪せるのですから。そして、それは「考えない」学びの頭脳の使い方です。記憶し蓄えることは「考える」学びの前提でしかないのです。
 ちなみに、縁あって私達のフリースクール・ぱいでぃあにやって来た生徒達は全員、一人ひとりに自分に適した活動や勉強のプログラムを組み立てた後は、勉強に必要な全ての教材の解答を渡されます。自立学習にも解答を持っていることは必要ですし、勉強はインプットではない、アウトプットこそが全てという考え方はこういう形でも反映されています。ここから新しい教育の方法が始まるということです。しかし、これはよく言われる「教えない授業」というものとはまた「似て異なるもの」かもしれません。


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■インプットからアウトプットへ──勉強の変革(3)古典的教授法の終焉

2010.08.29.15:46

▼体験を通した記憶が生き残る
 「学び」の問題も含めて子どもの活動の全体を評価することが大事なんですね。なのに、それを狭くて窮屈な「勉強」に限定してしまうから、いろいろ問題が起きてくるんです。子ども時代というのは特に未分化の部分が多いのです。
 勉強は勿論大事です。でも、それ以前に、子どもにとっては体験そのものが最大の学びだということです。体験を通して身につけたことは、それが意識的であろうと半ば無意識的であろうと記憶されるんです。
 たとえば、大人になって偶然に幼稚園や小学校時代の友達と出会ったとします。すると、その子と遊んだりバカをやったりした様々な思い出が一気に鮮明に思い出されませんか?意識的に記憶したことは全くなかったいのに、身体がしっかりと記憶しているんですね。

▼アウトプットで人はコミュニケートする
 逆に、学校で学んだ細かなことや「ここはテストにでるからよく覚えておけ」なんて先生に言われたようなことは、殆ど思い出せない。忘れてしまっているんですね。ですから、その人と旧交を温めたり、思い出に花を咲かせたりすることができるのは、自分たちが自然に思い出し語り合えることによるものですね。つまり、記憶の底からアウトプットできたものが全てだということです
 何をインプットしたかではないんです。たとえインプットしたとしても、その時に思い浮かばないようであれば、意味がありません。子どもの勉強だけでなく、子どもの全ての活動に言えることではないでしょうか。特に、「9歳の壁」とか「12歳の臨界期」などと言われる期間にいる子ども達の場合には。
 どんなに時間をかけて勉強しても、どんなに一生懸命にインプットしたとしても、それが必要なときに必要な形で思い出せなければ全く意味がない。アウトプットが大事というのはそういうことです。

▼学校教育での勉強はインプットが主流
 私の頃も今の生徒達の場合も大差ないと思いますが、学校での勉強はインプット重視ですね。先生が教科書に従って、あるいは指導要領に従って生徒に教え、それを生徒に覚えこませる。教師の指導力と言われるものはそこにかかっています。
 ですから、ちょっと見れば分かることですが、「教科書」は生徒のためではなく先生が生徒に噛み砕いて教えるのに都合のいいように出来ています。対して、生徒にはひたすらそれに応えられる記憶マシーンとなることが求められるのです。そして、なるべく正確に大量に記憶できた者が優れた生徒と見做されます。

▼古典的教授法よ、さようなら
 ですから、教育実習の学生に指導案の作成を指導するような先生は、まずそういう技術や態度を学生に学ばせます。実は、その先生にもさらに上の先生がいるんです。たとえば、以前ですと林竹二(元宮城教育大学学長)さんのような方はその最良のモデルとして、良心的な先生方に尊敬されていましたね。亡くなった後も、その方の記録映画をもとに勉強会などもよく開かれていました。
 確かに本当に教師のモデルのような素晴らしい方だったのだと思います。でも、だから、あえて言いたいんです。あのような授業を行うには、林さんのような頭脳や人格や存在感など、教師としての優れた資質の全てが備わっていることが必須条件なのです。そういう条件が揃っていてはじめて可能なのです。
 つまり、どんなに頑張ったって誰でもが出来ることではないんです。林さんだからできたことなんですね。とても一般の先生に求められることではないんです。しかも、これが肝心なことなんですが、林さんの授業もまたインプットを主とする古典的授業形態だったということです。

▼求められるのは生徒が主体の教育方法の確立
 インプットする側、教授するからすれば、ほぼ完璧に近いものです。伝統的な教授法としては満点に近いものなんです。
 たとえば、林さんは晩年に障害者や定時制高校の子ども達に精力的に、田中正造の話などをして歩いたようで、その授業風景が感動的な映像として残っています。障害のある子や恵まれない環境で育ったような定時制の生徒達の心に直接働きかけ、分かりやすくゆっくりと、その魂に揺さぶりをかける。正に林竹二さんならではの迫真の授業です。でも、それでもそれは、教師が主体の、生徒がお客さんの、古典的授業なのです。
 でも、日本の教育では今までそういう授業が正統的なあるべき授業法と見做され、根本的な疑問を持たれず、他の方法はほとんど考慮されて来なかったように見えます。ですから、個々の試みは別にして、学校教育全体として教育方法が大きく変わるためにはまだまだ時間がかかるのではないでしょうか。何よりも教師全体の意識の変革が必要ですし、教師の育成法も大転換しなければなりませんから。

(4)につづく

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インプットからアウトプットへ──勉強の変革(2)スキルの向上

2010.08.20.14:46

※このブログで述べていることは確定的な意見ではなく、あくまでも「覚え書き」的なものであるとご理解ください。

gakkoukara-gakkouhe 経済同友会が発表した「学校から合校へ」
(月刊教育誌「ニコラ」1995年10月号から)

■Q:子どもが主体となると、勉強その他の活動がどう変わるんですか?「子どもの好き勝手にさせておいていいのか。大人として子どもに伝達すべきものがある。それを行うのが教育だ」というような考えも根強いと思うんですが…。
■A:うーん、教育のこととなるとどうしてみなさん堅苦しく考えてしまうんでしょうね。もっとゆったりと広い視野で眺めてみませんか。
 確かに、日本に近代国家が成立し、欧米に追い付き追い越せとばかり、富国強兵とか殖産興業とかの掛け声でやっていた時代には、教育もいかに良質の部品を大量に生産するかということに力点がかかっていました。でも、それはそれで時代の要請であったわけです。「近代的教育工場」と言ってもいいと思いますが、当時の教育はそういうニーズに応えることでそれなりにうまく機能していたんです。でも、今はもうそういう時代ではない。なのに教育は一向に自己変革できない。子ども達のニーズに全然応えられなくなってきていますね。
 一方、相変わらず進学熱は高いですけれども、みんな学校教育に満足していない。未来への展望もない。でも代替のものもない。だから、とりあえずこの路線で行くしかない…、そんな感じですね。
 こういう日本の教育の危機を最も敏感に察知したのは、実は財界や産業界ですね。1990年代、不登校になる子ども達がどんどん増えてくる中で、このままでは「日本沈没」しかないと、「学校から合校へ」という教育改革のスローガンを掲げていち早く動き出したのは経済同友会の人達でした。今、外国では日本のことを「失われた10年」とか「20年」とか言って「日本のようになるな!」ということが言われているようですが、その元は自ら変革できない日本の教育にあるんじゃないでしょうか。でも、教育界は馬耳東風というのか、自ら真剣に変わろうとする感覚を持っていない…。

■Q:なるほど、教育は日本の命運とも連動しているわけですね。でも、ちょっと話が難しくなりました。卑近な例で説明してもらえませんか?
■A:たとえば、私どもが英語を習ったときは、「Jack and Betty」という英語教材でした。でも、周りには外国人など全くいません。特に私が育ったような田舎はそうです。では、何のために英語を勉強するのか。それは日本が復興するために欧米の知識をどんどん吸収するためなんですね。ですから、もっぱら理解する英語、黙読する英語ですね。しかも、英米人でもびっくりするような難しいレベルにまで突き進む。そういう英語の勉強が求められたんです。でも、結局そういう語学は身に付かない。私もそういう英語教育の犠牲者の一人です。
今は中学生では「New Horizen」とか「Sunshine」、「Total English」、「NEW CROWN」などになっていますね。それでも──どっきりテレビじゃないですが──やっぱり「I study English.」なんですね。「I learn English.」ではない…。

■Q:つまり、依然として、日本の学校教育のスタイルは変わっていないと…。
■A:ええ。語学はコミュニケーションのためのツールだと思うんです。ところが、日本ではなぜか「研究」になってしまう。「learn」と言えば習得し使えるようになることが前提です。ところが、「study」だと勉強しているという態度が問題であって結果は問われない。で、日本の子ども達はみんな難しい顔をして「study」している。その結果、OECDの加盟50数カ国の中で習得率が最下位なんていうおめでたい勲章をもらうことになるんですね。
 これは英語だけの話ではない。日本の教育の象徴的類型ですね。これが全ての学校教育のあり方に浸透している。日本の教育は初等教育としてはとても高度なことをしているんだけれども、恐竜の進化のように先がない、袋小路、行き止まりの勉強です。よく日本の携帯電話のガラパゴス化ということが揶揄的に言われますけれど、その典型は日本の教育システムそのものにあるんですね。

■Q:といいますと、たとえば…日本の教育が今後どうなって行かなければならないと?
■A:「子どもの学び」というのは、基本的に遊びやスポーツ等と同じ地平か、その延長にあるものだと思うんですよ。だから、それは「学問」ではなくそれ以前の「練習」を通じての「スキルの向上」というものだと思うんです。
 僕らが子どもの頃は日の暮れるまで(集団であれ個人であれ)遊び呆けたものですが、今は何でも訳知りの指導者(?)がいて組織化され序列化され、それで優劣が競わされる。その最たるものが学校での活動ですね。でも、子どもの活動って本来そういうものではないでしょう。「児戯に類する」という言葉がありますが、他愛のないことで戯れていたり、子供特有の創意や発見があったり、一見重要でない部分が重要であったりするものです。
 社会的な感覚を磨くという面から見ても、遊びにもルールはあるし、役割分担もある、想像力も不可欠です。仲間としての承認の儀式のようなものもあります。上達するともっと楽しくなるからと言って自分で努力もするし練習もする。これはみな共通なんです。その現れは違っても通底しているんです。こういう活動を通して子ども達はコモンセンスも自然に身に付けて行くんですね。
 たとえば、狭い原っぱで野球をしたとします。すると、ボールが近くの民家に飛んで行ったりする。それで、頭を下げて謝りに行き、ボールを貰うだけでなく、時にはガラスの弁償や鉢植えのことで大人と交渉しなければならなくなることもある。そういうことも全部、本当は子どもにとっては大事な勉強なんですよ。
 近年の教育は、そういうことを「教育」の名の下に子ども達から全部奪いとってしまった。「勉強」さえしていれば他は全部免除される。でも、それは子ども達の手足を縛り、心も縛り、その能力の向上を奪うことです。誰がこういう教育を当たり前にしたんでしょうんね。この功罪(?)はあまりにも大きいですよ。

(3)に続く

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インプットからアウトプットへ──学びの変革(1)

2010.08.12.01:08

希望の樹
(希望の樹)

■Q:「ぱいでぃあ」にはどんな子ども達がやって来るのですか?
■A:「フリースクール・ぱいでぃあ」のトップページには「不登校になっても、居場所も勉強も進学・進路(中学受験・高校受験)も大丈夫!」ってありますよね。また、「社会スキル、人間関係、心の相談、自信回復、学力向上、進学進路等の悩みに応えます 」ともあります。
 今はインターネットが発達した時代ですから、あらかじめインターネットでそういうことを調べてから来られる方が多いですね。少数ですが、フリースクールの紹介本などを見てこられる方もいます。ですから、「ぱいでぃあ」ってどういうフリースクールかということは大体知った上で相談に来られる方が多いですね。

■Q:ということは、勉学や進学にかなり力を入れているということを…。
■A:ああ、それはこちらに通うようになって、元気が出てきて本人がヤル気になって、それからの話なのですが、よくそこのところを誤解されるというか混同されている方が多いですね。勉学や進学に重きを置いているのは事実ですが、フリースクールは進学塾でも受験のための補習塾でもありません。それだけでは務まらないということです。そこのところ、もう少しわかりやすい説明が必要かもしれませんね。
 一般に「フリースクール」という枠で一括りにされていることが多いのですが、不登校の子ども達を引き受ける民間の機関としては大きく分けて二つのタイプがあります。一つはフリースペース、もう一つがフリースクールですね。
 フリースペースの場合は週に数回、主にその子のお母さんや不登校体験があったり学校で辛い思いをしたというような若い人がボランティアとして子どもに合わせて活動している場合が多いかと思います。それに対して、フリースクールはあくまでもスクールですから、不登校生のための学校の代替機関として、身体活動だけでなく教科活動や社会体験活動、その他も含めて総合的に関わることになります。教員の資格も必要ですし、心の問題等にしても専門的な知識や能力が問われます。単なる主婦のボランティアではとても務まりません。また、学校を離れた子ども達が救いの場として来るわけですから、学校の先生と同じ発想やレベルでもダメだということになります。人間的な包容力がどれだけあるかということも試されます。その分、当然それなりの料金もかかります。
 でも、それが保障されているかというと…。みな手弁当でやっているわけで、教育公費が投入されているわけではありませんからね。「危険手当でもないと、とてもやれない…と言って辞められた人もいましたね。肉体的なタフさだけでなく、精神的な強靱さも必要とされる仕事です

■Q:そういうことも含めて、フリースクールというところは、不登校生のために公立や私立の学校では到底出来ないようなことまで引き受けて運営している民間の教育機関であると考えていいんでしょうか?
■A:やはり、そもそも「フリースクールとは何か」ということを、その理念から説明する必要があるかもしれませんね。敢えてひとことで言えば、日本でフリースクールが設立された直接の動機ということも含めて、「不登校生の救済」ということがあったということは言えると思います。
 でも、「不登校」と言っても、一律ではありません。学年も違えば、不登校となった動機やきっかけも、一人ひとりみな違います。ですから、その子なりの事由に寄り添うことがまずはとても大事なことですね。
 大きく分ければ、生得的な要因が主か環境的な要因が主か、不登校になったのは本人に起因するものなのかそれとも他者に起因するものなのか…というような見方もある程度は出来るかなとは思います。しかし、実際にはそれらが複合的に絡み合っている場合がほとんどですし、原因探しをしたって本人の直接の助けになるわけではないですね。問題の視点がずれてしまうことにもなります。それに、どんな原因があろうと「不登校になっても仕方がない」というような見方は決して容認できないことです。

■Q:フリースクールは主に「不登校生の救済」ということを目的に、不登校の子ども達を受け入れている。しかも、不登校ということに対する向き合い方は学校とはまるで違うのだと…。
■A:そうですね。学校というところはどんなに言い繕っても先生が主体の場です。対して、フリースクールという学び場は「子どもが主体」だという認識は共通ではないでしょうか。中にはビジネスの建前上そう言っているところがあるのは気になるところですが、ほぼそう言っていいと思います。
 学校というところは生徒が学校に戻ってくれば(建前上は)それで問題は解決と考えるのかもしれませんが、フリースクールの場合には逆に生徒が学校を離れたところから始まります。そもそも生徒一人ひとりが学びの主体となって、その可能性を育む場が学校であるはずなのに、子ども自身が生き延びるためにそこから離れなければならない日本の教育システムとは何か──と問い掛けることがフリースクールの始まりですね。

■Q:そうしますと、フリースクールでの勉強といいますか、学びのあり方もまた子どもが主体の取り組みがなされている──そう考えていいですか?
■A:ええ、大体そう考えてもらっていいかなと思います。ただし、実際の教育は「子ども主体の学び」という理念の実践と同時に、その子たちの今までの勉強の仕方や理解のレベルに合わせて行われるわけですね。ですから、日本の学校で一般な授業形態である一斉授業形式は不可能ですし、一人ひとりの個性に光を当てた学習を支援するという趣旨からも外れます。まして、偏差値的な物差しで進学塾のように習熟度別指導を行うなどという発想は論外です。
 ここのところはフリースクールでの学びを考える上でとても重要なところですね。そこで、もう少し詳しく説明したいなと思います。

(2)に続く。

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感覚の翼を大きく広げて…

2010.05.25.22:44

卒業制作 (卒業生の卒業制作から、O君の作品)

▼「脳が喜ぶことをやりなさい」

 「好きこそものの上手なれ」という諺(ことわざ)がありますね。今流に言えば、「脳が喜ぶことをやりなさい」ということでしょうか。これは今でも真実ですね。好きでやることは理解も速く上達も速いものです。逆に、それが嫌いなものなら、ためになるからと言われても、なかなか身に付きませんし上達しません。

▼みんなちがって、みんないい
 ですから、もし嫌いな教科があれば、無理押ししてもダメです。強要するよりも、どうして嫌いなのか、じっくり聞いてあげることですね。そうすると、解決策が見えてきたりします。でも、どうしても好きになれなくてもいいのです。それもまた一つのあり方です。何も八方美人でなくていいんです。一人ひとり顔も違えば、個性も違います。それが自然な姿です。

▼勉強とスポーツのちがい
 でも、子どもの勉強のこととなると、熱くなる親御さんが多いようです。好きか嫌いかなんてお構いなし。「やれば出来るようになる(はずだ)」と。これって、現実と願望を混同していませんか?
 運動(スポーツ)に置き換えればよく分かります。いくら頑張っても苦手な子は苦手なんです。能力に恵まれた得意な子に適うはずがないんです。だから、楽しめればいいんです。親御さんもそれを認めています。でも、なぜか勉強だと、そんなに熱くなってしまうのでしょう。おかしいですね。

▼効率良く勉強するということ
 それに、やり方というものもありますよ。「勉強に効率を求めるな!」というお固い人(先生や親)もいるようですが…。そんな人は正座して「子曰く…」なんて論語を暗唱しているような姿を理想型のように考えているのかも知れませんが、あれもね…。本当はもっとリラックスして勉強する方が理解がいいんじゃないですか。何でも、平安時代の才女・清少納言も寝転がって本を読んでいたそうじゃないですか。効率悪くだらだらやっていることに目を向けないで、「根性で頑張れ!」といってもねえ。

▼学校に行かないからこそ出来ること
 せっかく学校を離れて自由に考える時間を持てるようになったのです。過去の原則に縛られず、自由に感覚の翼を広げて、「?」「?」「?」をいっぱい持ってみるといいですね。いろいろな発見があると思いますよ。
 ニュートンもエジソンもアインシュタインも、学校に行かなかったから自由に思い通りに勉強出来たんだとか…。

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Bakiller

Author:Bakiller
不登校の子ども達やフリースクールを応援するブログです。
「不登校も過ぎてみればいい経験」がモットー。「脱・不登校」ですが、不登校の否定ではありません。それを肥やしにして、そこから飛び立つことが願いです。
 世の中にはもと不登校とか学校が合わなかったという人はたくさんいます。でもその人達は自分を否定せず自分を貫き通し自己実現した人達。不登校をはじめ様々な逆境をまたとないチャンスとして積極的に生かした人達。何も特別な人達ではありません。どの子もそうなることことを願っています。主役はあなたです。

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